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穂高神社

二十年に一度の盛儀、式年大遷宮祭が
斎行されましたこと、厚く御礼申し上げます。
穂高人形まつり 竹取物語 かぐや姫月に帰る場
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大遷宮祭
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工事関係
大飾物回顧展
穂高人形
きらびやかに繰り広げられる、伝統の人形絵巻
川中島合戦、山本勘助の最期の場
御遷宮祭の奉祝行事として、安曇野が誇る「穂高人形飾り物」(長野県無形民族文化財選択・安曇野市無形民族文化財指定)が奉納されます。穂高人形は古くから郷土に受け継がれてきた心と業の伝統芸術です。


表情豊な人物や躍動感ある動物などが、素朴な技法をもって制作されます。燃え立つわかばと、瑞々しく香る樹蔭の境内が人形絵巻の舞台となり、森の樹々を背景に神話・民話・歴史上の様々な名場面が飾り付けられ、大規模で迫力ある人形絵巻が展開されます。
開催日 平成21年5月2日(土)〜17日(日)午前10時〜午後8時
場 所 穂高神社 南神苑、境内、北神苑(展示会場[PDF]はこちら
飾物場面数 7場面
穂高人形飾り物の場面紹介
平成21年5月穂高神社大遷宮祭 穂高人形飾り物
 大河ドラマ「天地人より」
豊臣秀吉の招待をうける上杉景勝・直江兼続主従の場
大河ドラマ「天地人より」豊臣秀吉の招待をうける上杉景勝・直江兼続主従の場
天下を手中にした豊臣秀吉は越後の上杉家を服従させようと大阪城に招きましたが兼続の「利より義を貫く心情」に感じ上杉家に会津百二十万石を与え景勝を豊臣五大老に加え同盟を結びましたが、秀吉の死後、関が原の戦いに敗北、徳川家康の命により米沢三十万石に減封されました。藩内には不平不満から攻戦を唱える者もあったが、兼続は今は徳川家康の時代であり、上杉藩を存続する事が大切と藩内を鎮め、家康に服従、家臣主従達を連れ米沢に移り、米沢藩内の開発殖産発展に努めました。

製作 穂高人形制作 保尊教室
睦友社 保尊和夫

 竹取物語 かぐや姫月に帰る場
竹取物語 かぐや姫月に帰る場
或る所に竹細工を営む翁(おきな)ぢいさんがおりました。竹を切りに竹林に行くと、根元が光る竹を見つけ、切ってみると小さな女の子が出てきました。翁はこれを神様が授けてくれたものと家へ連れて帰り、媼(おおな)ばあさんとかぐや姫と名づけ、大事に育てました。大きくなり、無類の美貌と知性を備えた乙女となりました。身分の高い人達から求婚されましたが、かぐや姫からの難題に失敗してしまいました。この話が時の帝(みかど)の耳に入り、帝に求婚されましたがかぐや姫は「私は月の世界から送られた者で月に帰らなくてはいけない」と月を眺めて泣いていました。帝は大勢の警護の武士に守らせましたが、八月、十五夜、月が昇ってくると強い光に眼もくらみ、かぐや姫は月よりの使者に迎えられ帰っていってしまいました。
因に 竹取物語は今から千年程昔、日本最古のカナ文字で書かれた物語です。作者不明

製作 穂高人形制作 保尊教室
睦友社 保尊和夫

 源平屋島の戦いで那須与一扇の的を射る
源平屋島の戦いで那須与一扇の的を射る
源氏の軍勢に激しく攻めたてられ、再び海に逃げた平家より、舳先に一本の竿を立てた小船がこぎ出されその先に日の丸の扇が結びつけられている。そして美しい女人が「この扇を射落として見よ」とでも云うように扇を指して手招きをしている。源義経は之を見て「誰かあの扇を射落とせる者はいないか」と云う。畠山重忠が「那須与一ならきっと射落とせましょう」時に与一は十七歳で源氏きっての弓の名手であった。
与一は義経の命を受け、静かに馬を海に乗り入れ矢をつがえて的を狙うも、小船は波にゆれ馬も動き、的が定まらない。与一は心を静め神に祈った。願いが通じたか的が大きく見えた。すかさず弦をはなすと矢は狙いたがわず扇の要を射抜き、扇はひらひらと舞いながら波に落ちた。敵も見方も与一の弓の見事さをほめたたえた。時は文治元年(1185年)二月十九日夕刻であった。

製作 穂高人形制作 小平教室
一真会 小平貞男

 川中島合戦、山本勘助の最期の場
川中島合戦、山本勘助の最期の場
信濃の国を我ものにしようとする越後の雄将上杉謙信と甲斐の智将武田信玄は雌雄を決しようと川中島に兵を進めた。武田勢は八幡原に、上杉勢は妻女山に陣を取り両軍併せて三万三千余、九月十日未明霧の深い中のことである。信玄の「鶴翼(かくよく)」の配備に対して、謙信の「車懸り(くるまかがり)」の攻撃で双方共死闘を尽くし八幡原は大修羅場と化した。謙信は只一騎で、愛刀「小豆長光」を振りかざし、武田の本陣に攻め込み信玄に斬りかかる。不意を突かれた信玄は咄嗟に軍配で謙信の太刀を受け止めた。時に信玄四十一歳、謙信三十一歳、永禄四年(1561年)のことである。

この九月十日、第四次の戦いが一般に云われる川中島の戦いである。その兵上杉方一万五千、武田方一万八千とも云われるこの戦いで、武田方は山本勘助の進めもあって啄木鳥(きつつき)戦法(上杉方の背後を襲うという作戦)。上杉方はその作戦を見破り武田本陣のある八幡原の西方に前夜の内に陣をしいてしまった。
九月十日霧の晴れた朝の戦いである。勝負がつかないまま両軍は引き上げたが多くの名将が戦死した。その数上杉方三千四百、武田方四千五百と伝えられている。武田方では信玄の弟騎馬隊隊長の武田信繁、作戦をたてた山本勘助、信玄の前を守っていた諸角豊後守(もろずみぶんごのかみ)等である。勘助は謙信が啄木鳥戦法を見破り、武田本陣が奇襲され作戦の失敗を痛感して、敵方に躍り込み壮烈な最期を遂げたのであった。

製作 穂高人形制作 小平教室
一真会 小平貞男

 大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)
大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)
其の昔丹波の大江山に酒呑童子と云う鬼が多くの手下を集めて住みつき、京の都へ出ては財物をかすめ女子供をさらい人々に恐れられていた。茨木童子と名乗る鬼は、羅生門にあらわれ渡辺の綱と云う武士に腕を切られたものもいた。時の帝はたいそう心を悩まされ、源氏の大将源頼光に鬼退治を命じた。頼光は命を受けると、家来の四天王と共に山伏姿に身をかえて大江山に向かった。家来の中には渡辺綱や坂田金時が居た。険しい山路を登ると仙人が現われ、鬼が飲むと弱くなると云う霊酒を授り、谷川にて洗濯する女子に会い館への道を案内してもらうことにした。館にて一晩の宿を頼むと許され、其の夜霊酒を鬼たちにふるまい酔って寝入った鬼たちを鎧兜に身をかためた頼光たちはのこらず退治し、捕らえられた女子供を助けて都に凱旋した。(御伽草子の中の大江山より)

製作 穂高人形制作 牛流教室
七星会 牛流弘次

 大阪夏の陣
大阪夏の陣
関が原の戦いで勝利した徳川家康は、天下を手中に納めんと願っていた。そして豊臣秀頼が建立した方向寺の鐘の銘に国家安泰、君臣豊楽の文面は徳川家を呪ったものであるとの難癖をつけて慶弔十九年十一月冬の陣を起こすことになる。しかし豊臣方よりの和睦の申し出に応じ、条件として城の内外の堀を埋めて戦を治めたが、翌二十年四月には豊臣方に謀反有りと夏の陣を越し、難攻不落の大阪城も裸城となっては防御無く諸将は出陣し木村重成、後藤又兵衛等が相次いで討死した。真田幸村は家康を討取るより勝利なしと機をうかがって居たが、見方の毛利勢が本多勢を破り家康本陣を脅かすを好機ととらえ手勢三千五百を率いて本陣へ突入。大混乱をまき起し家康をして死を覚悟させた程であったが徳川方の藤堂勢が駆けつけ真田方は退却をよぎなくされ殿をつとめた幸村は壮烈な最期をとげた。

製作 穂高人形制作 牛流教室
七星会 牛流弘次

 お祭り好きの太閤秀吉が広めた醍醐の花見
お祭り好きの太閤秀吉が広めた醍醐の花見
慶長三年(1598年)三月十五日、豊臣秀吉が醍醐寺の三宝院で催した豪華な花見の宴、桜を愛でながら宴会をするという、花見の一般的なスタイルを確立したのも実は秀吉であった。
自ら下見を八回も行い庭園を造営し、畿内各地から集めた七百本の桜を、一年がかりで参道に移植させ桜並木をつくった秀吉は、息子の秀頼、妻のおね、側室の淀殿大名等、総勢1,300名を従えて花見を楽しんだ。
秀吉は醍醐の花見から五ヵ月後に世を去ることになるが、桜の花を観賞しながら宴を楽しむという、秀吉の花見スタイルに多くの人たちが共鳴し、しだいに庶民の間に広がりはじめたのである。

製作 穂高人形制作 小平教室
一真会 小平貞男

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